左の画像、なんだかお分かりになりますか。ドイツ語に馴染みのある人にはおなじみでしょうが、そうでない方には何かの記号に見えたかもしれません。これはドイツ語で使われる「ß」(Eszett/エスツェット)という文字です。ドイツ語には英語やフランス語などと共通の26文字のラテン文字(いわゆるアルファベット)が使われています。それ以外にドイツ語では左のEszettに加え、「ä/Ä」(A Umlaut/アー・ウムラウト)「ö/Ö」(O Umlaut/オー・ウムラウト)「ü/Ü」(U Umlaut/ウー・ウムラウト)があります。つまりドイツ語では(記号を除けば)全部で30の表音文字を利用して言葉を表記するということです。
「ß」は本来合字の1つで、sの無声音を現わす為のものです。sの無声音を現わすにはsを2回続けてssと記すことがありますが、それとほぼ同じ役割を「ß」は持っています。ssを一文字で書いたものが「ß」の由来だとされています。
ラテン文字の上に付けられた「¨」(ウムラウト記号)はその母音が変化することを示しています。
これらの4つの文字を現わすことが出来ない場合には、かわりの文字で代用することが可能です。例えば「ß →ss(場合によってはsz)」「ä/Ä→ae/AE」「ö/Ö→oe/OE」「ü/Ü→ue/UE」といった具合です。いずれの場合もその文字の由来とされているものを利用しています。
さてドイツ語を知らなくても感の良い方なら気がついたと思いますが、私は先ほどから「ß」は一種類しか記していません。「ä/Ä」「ö/Ö」「ü/Ü」といった文字も、小文字と大文字を示してあります。もちろんラテン文字26字にも小文字と大文字があるのはみなさんよくご存知のことでしょう。しかしながら「ß」に至っては、片方しかありません。「ß」は小文字になります。「ß」には大文字はないのです。ドイツ語を学ぶとき、ウムラウト記号の付いた3文字に加え、「ß」が新しく目にする(それまでに英語を習っていれば)文字でしょう。そして「ßには大文字はありませんよー」と必ず習います。ドイツ語だけに使われる4つの文字の中でも、さらに「ß」だけは特別な文字なのです。もともと単語の先頭で使われることを想定されておらず、常に単語の中か末尾で使われるものである「ß」だけに、大文字の必要性がなかったのかもしれません。
さて最近毎週とあるところから頂いてくる古新聞を読んでいました。そしてその古新聞の中で「ß」にまつわる面白い記事を見かけました。Handelsblattという日本で言うならば日本経済新聞のような経済紙があるのですが、そこに2007年5月22日付で「Das große „ß“ kommt(大文字「ß」がやってくる)」という見出しの記事がありました。その見出し通り、大文字の「ß」がつくられるということです。
ドイツ語を習い始めて以来、「ßは小文字だけ!」というのを常に聞かされていたし、実際に大文字の「ß」は見たことありませんでした。大文字の場合だけかならず「SS」と表記されています。それだけにこの見出しはかなり興味をひかれました。
Handelsblattの記事によればDeutsches Institut für Normung(ドイツ規格協会)がすでにその準備を進めており、大文字の「ß」にUnicode(ユニコード)として「0x1E9C」が数ヶ月以内に与えられることになるとの決定が2007年4月にあったと伝えられています。Unicodeとは多言語文字をコンピュータで扱えるように、それぞれの文字に記された住所のようなものです。このUnicodeを参照することで、コンピュータは必要な文字を確実に表示することが可能となります。このUnicodeが大文字の「ß」に与えられるということは、ドイツ語の中の1つの文字として大文字の「ß」が認められたということになります。
これには驚きました。今までないと思っていたものがあることになるのですから。例えば濁音や半濁音のない日本語の「ア行」に、いきなり「ア行にはこれから濁音や半濁音がつきますからね」と言われたようなものです。もっとも大文字の「ß」に関する議論は、19世紀末頃からあるようです。それ以来21世紀になった今日まで延々と続けられてきた議論に、今ひとつの結論が与えられるかもしれません。
大文字の「ß」の導入による利点は、大文字で表記した場合の意味の取り違いが防げることを例に挙げています。例えば大文字で「MASSE」と書いた場合、それが「Masse(群れ)」なのか「Maße(度量)」なのかは、今までは前後の文章から区別するしかありませんでした。これが大文字の「ß」の導入によって分かりやすくなります。
ただ大文字の「ß」の導入に伴う混乱も予想されるとHandelsblattは伝えています。例えば名前に「ß」が利用される場合、大文字表記の場合でも例外的に小文字の「ß」が利用されることがありましたが、大抵の場合「SS」が利用されます。税務署などでも「Eßer」さんは「ESSER」さんとして登録されているようです。これが大文字「ß」の利用によって別人と取り扱われたりするなど、業務に支障をきたしたり、名前に「ß」を持つ人が不利益を被る可能性を指摘しています。
歴史的に見れば「ß」に大文字があった事は確認されています。Handelsblattの記事にもありましたが、Wikipediaドイツ語版の「Versal-Eszett(大文字セスツェット)」という項目のところにも言及がありました。1957年にLeipzig (ライプツィヒ)で出版されたDudenの辞書の表紙には大文字の「ß」が使われているという写真が掲載されています。今まで見たことなかっただけに、「大文字の”ß”ってどんなものだろう」っていう期待はありましたが、当たり前といえば当たり前、そのままでした。
Wikipediaのその記事によればDudenの使用例に限らず大文字の「ß」はフォントのデザインとしてかつても、そして現在もあるようです。記事の下の方に画像と共にその例が載っているのですが、思ったよりもありそうです。古くは1906年のものから、最近のものは2007年までがあるようです。もっとも最近のものは2004年からのものであり、ここ数年のうちにデザインされたものですから、Handelsblattの報じた一連の流れにいち早くのっとったものかもしれません。ほとんどのものは1900年代初頭のもののようです。
大文字の「ß」にUnicodeが与えられることになった今、私たちが日常コンピュータなどで使っているフォントにも大文字が必要となってくるでしょう。そうなると、今フォントを作っている人たちは大変頭を悩ませることになるだろうと、Handelsblattは伝えています。大文字の「ß」をどんな形にするのかは、確かに難しいところでしょう。そしてフォント・デザイナーの腕の見せ所でもあるでしょう。他のラテン文字と同じように小文字の「ß」と大きくかけ離れない形で大文字をデザインしなければならないと思いますが、そうなってくると今度は大文字の「B」との違いをつけなくてはなりません。確かに頭を悩ませる作業だと思います。
タイプ・デザイナーはこのことについてどう捉えているのだろうと気になって、いつも拝見させていただいている小林章さんのブログをのぞいてみました。小林さんはドイツ在住のタイプ・デザイナーです。ドイツのLinotype GmbH(ライノタイプ)というタイプ・ベンダーで勤務されています。日本における欧文タイプ設計の第一人者で、もちろん日本のみならず世界的にも有名です。例えば私が利用しているApple社製のMacintoshで利用されている日本語フォントの「ヒラギノ」、このフォントの一書体の中に利用されている欧文フォントは、小林さんの手によるものです。ドイツ在住で、私のよく利用するフォントのデザイナーさんということもあり小林さんには興味があり、おまけにブログも設置されているということなので以前からちょくちょくとお邪魔していました。そして今回の記事を見てプロの方はどうしておられるのだろうと小林さんのブログを拝見してみました。そうしたらやはり記事に取り上げられていました。
「大文字エスツェット」というエントリーなのですが、そこで大文字の「ß」について簡単に取り上げられています。小林さんはもう仕事に取りかかられたようで、
その記事を読んだ Werner Schneider さんからの電話で、いま彼の新書体の制作最終段階に入っているが、「小文字のオルタネート文字に加えてその大文字エスツェットを追加したい」と言われて、エンジニアと相談して入れることにした。ちょっとモメたけど。
というように記されています。実際には詳しい様子を記されていないので、どのようなものになったのかは分かりません。しかしながら言われてすぐに対応できる辺り、プロだなーと思いました。まあ小林さんの場合は、プロといっても一流のプロなので当たり前なのかもしれませんが。(2007年6月5日補足:私は小林さんのブログのこの文章を読んで、小林さんが大文字の「ß」をデザインしたものだと読み取ってしまいましたが勘違いだったようです。実際はSchneiderさんがデザインするというのが正しいようです。小林さんご本人から教えていただきました。ありがとうございました。)私などは見たことないので「大文字の”ß”」と言われても、「???」と疑問符が連なるだけで具体的に何の形も想像がつきません。もしかしたらそのうち小林さんのブログにも大文字「ß」のデザイン時の話が掲載されるかもしれませんし、「ヒラギノ」にも小林さんデザインの大文字「ß」が付け加えられるかもしれません。なんだか楽しみになってきました。
Handelsblattの記事ではドイツ語キーボードの問題も取り上げられています。通常の文字はシフトキーなどを押しながらうつと大文字になりますが、「ß」は小文字しかなかったため、シフトキーを押しながら入力すると「?」が出るようです。(私は英字キーボード利用のため、詳しくは分かりません。)また、手書きの場合もどのように綴るかというのが議論になっているようです。
といった具体に、まだまだ大文字「ß」の利用には様々な問題が待ちかまえているようですが、現場レベルでは徐々に対応が進められているようです。そのうち、「私がドイツ語を習い始めたときには、”ß”には大文字はなかったんですよね」などと語る日が来るのでしょうか。
Similar Posts: