ははのうまれたところ

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▲塩飽諸島と瀬戸内海▲

奥さんのご両親と奥さん、私の両親と私が、岡山市のホテルで顔合わせをしたことは、以前のエントリーに記しました。

その後、奥さんのご両親は、自宅のある三重県へと帰って行かれます。そして、奥さんと私の両親、私の4人は、私の実家のある香川県へと向うことになりました。

香川県から岡山県へは、瀬戸大橋を自動車で渡ってきていたので、帰りもそのルートを通ることになります。

その瀬戸大橋の中間地点に、与島パーキングエリアという、瀬戸大橋が通る島々で、唯一一般車両が降りられるパーキングエリアがあります。帰りに、私たちは、そこに寄ることにしました。

与島パーキングエリアがあるのは、瀬戸内海に浮かぶ島のひとつで、そのまま、与島(よしま)と呼ばれる島です。香川県の坂出市に属します。与島は、日本で最初に国立公園として指定された瀬戸内海国立公園内に位置すると同時に、塩飽諸島を形成する島々のうちのひとつでもあります。面積1.1km²、72世帯、人口143名(2008年3月1日現在)という、非常に小さな島です。

その与島ですが、私の母が生まれ育った場所でもあります。瀬戸内海の島々は、昔から良質の石材が取れることで有名なのですが、この与島もその例外ではありません。海をほんの少し隔てたところにある、兄弟、もしくは親子のような小与島とあわせて、「与島石」といわれる、花崗岩、閃緑岩が採掘されていました。私の母の実家も、そうした採石業を生業としていました。

そういったこともあり、私が小さかった頃、この与島へはよく訪れていました。しかしながら、最後にこの島を訪れたのは、バイトの友人達と香川県へさぬきうどんツアーに行った時でしたから、もう10年ぐらい前のことになります。

久々の与島は、またさびれた様子でした。前回の与島訪問時も、島の中には入らず、ただ与島パーキングエリアに立ち寄っただけですが、もうすっかり瀬戸大橋観光ブームは過ぎ去り、閑散としたものでした。今回立ち寄った与島パーキングエリアも、その時同様か、それ以上に寂れていました。

瀬戸大橋が出来る前、私が小学生時代までは、船で与島によく訪れていました。私がまだ幼稚園とか、小学校低学年ぐらいまでは、この与島に母の実家がありましたから。その後、母の実家は対岸の、倉敷市に移りました。それでも、まだ私が小学生ぐらいの時は、母の姉夫婦などが住んでおり、夏休みなどにはよく訪れて、海で一日中泳いでいたものでした。

その後、姉夫婦も香川県へと移り住んだ後は、お盆の季節に帰るくらいになりました。瀬戸大橋が出来てからは、私も数えるぐらいしか、与島を訪れたことがありません。

今回の訪問では、前回と同様に、与島パーキングエリア内だけをウロウロしました。したがって、島内のくわしい様子は分りませんでしたが、すでに島内にあった、幼稚園、小学校、中学校は休園、休校になっていて、2008年中に廃校となることが決定されているようです。私の従兄が、まだこれらの学校に通っていた頃、3つで合同の運動会が催されていて、それをよく見学に行ったものです。その当時はまだ人が沢山いて、活気がありました。それから、過疎化が進んだということでしょう。

瀬戸大橋が計画中は、「観光で島に活気がみなぎる。」といったようなことが、よく言われていたと思います。与島と小与島をロープウェイで結び、一大リゾート地として開発するような計画も聞いたことがありました。

実際、瀬戸大橋が開通してからの数年は、観光で島も潤っていたように思います。小与島全体を、数百億円でリゾート島に生まれ変わらせるといって、島民に移住を勧めていたはずです。バブル末期の華やかりし時代でした。

ただその後は、バブルもはじけ、観光ブームも早々と下火になると、与島を巡るにぎわいも、一気に凋落します。結局、小与島のリゾート島計画もどうなったことやら。小与島にひとつホテルが出来たらしいのですが、それが今も利用されているのかどうかは分りません。

瀬戸大橋が出来る前は、「橋が出来、便利になったら、島に若い人たちが帰ってくるだろう。」という観測もありました。しかし、実際には、出ていっただけのように思います。

もし私が、与島に生まれ、瀬戸大橋が出来る前に、岡山県や香川県(四国)に移住していたとします。そして、私が働き盛りのころに橋が出来て、交通の便が劇的に解消されたとしましょう。観光ブームで島にも職が出来ます。しかし、その条件で私が与島に帰ることがあるかと言われれば、それはないでしょう。

本州や四国に一端住んでしまって、そこに生活の基盤をおいてしまえば、幾ら便利になり職が出来たといっても、もう一度与島には帰りたいと思いません。例え、与島に職が出来たとしても、通う方を選択します。

恐らく出て行かれた島民の多くの方は、私と同じようなことを考えただろうと思います。「交通の便が良くなったから、島に帰りやすくなった。これなら、島から出ても、何かあったときに、島に帰りやすいので大丈夫だろう。」と。「島への交通の便が良くなったから、島で生活しよう。」そう思った人の方が少なかったのではないでしょうか。

瀬戸大橋は、島の人々に夢のような話をもたらしながら、結局は、逆に過疎化を進行させてしまったのではないかと、私は思います。夢のような話は、夢でしかなかったということではないでしょうか。

写真は、与島パーキングエリアにある、与島プラザ横から、瀬戸内海を見渡した様子です。与島から、ちょうど西を向いた方向に当ります。右の島は本島、左の島は牛島です。塩飽諸島の島々の間に沈んでいく夕陽が、とてもキレイでした。

与島パーキングエリアがある辺りも、昔よく訪れていました。石切場があったり、畑があったりしたからです。畑はなくなっていそうでした。石切場も、今はただの大きな水たまりのようになっています。与島プラザのある裏あたりでは、海水浴がてら、カニなどを釣って遊んでいました。あの海はどうなったのでしょうか。

島内を散策していないのは先ほども記しましたが、今度一時帰国するときは、島内をゆっくりと散策してみたいものです。

母の生まれた以前実家や、姉夫婦の以前の自宅などは、「恐らく」今もあるだろうと、母が言っていました。母も、長い間行っていないようです。

与島の西側にある港の沖合、数十メートルのところには、鍋島という小さな小さな島があります。その鍋島は、与島とは堤防で結ばれており、歩いて渡ることが可能です。

この鍋島には、鍋島灯台といわれる、1872年にイギリスの建築家、Richard Henry Brunton(リチャード・ヘンリー・ブラントン)が建築した、石造りの灯台が現存します。現在は海上保安庁が選択した、Aランクに位置する保存灯台23台のうちとひとつとして、積極的な保存作業が進められています。

私が与島を訪れていた頃は、夏休みは必ずといって良いほど、この鍋島で海水浴を行なったものでした。

その当時はまだそこに灯台守といわれる、職員がいたのですが、今はもう自動化され、無人になっているようです。灯台守がいた、退息所は、現在香川県高松市にある四国村に移築され、展示されているとのことでした。また、残念ながら、今はその灯台に、近づくことも出来ないようです。

こういった、母の以前の実家や、鍋島灯台、幼稚園や小学校や中学校、昔遊びに行った場所や、よく通った駄菓子屋などが、現在はどうなっているのか、直接自分の眼で確かめたいと思うし、奥さんにも紹介したいので、次回の日本一時帰国時には、また与島へと訪れたいと思います。


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▲坂出市与島町▲
▲Google マップより▲

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