たかばたけかしょうたいしょうろまんかんめーるまがじんだいにじゅういっかい

愛媛県東温市にある、高畠華宵大正ロマン館より、メール・マガジンの最新号である、第21号が届きました。

今回のメール・マガジンでは、これまでの号に引き続き、現在、高畠華宵大正ロマン館で行なわれている展覧会、「高畠華宵生誕120年 華宵のこども絵展〜ファンタジー世界のこどもたち〜」が紹介されています。

その展覧会の中でも、今号のメール・マガジンでは、第3展示室の様子が紹介されているのですが、その記事を読んで、以前私がたてたエントリーで伝えた情報の中に、間違いがあることを発見しました。

そのエントリーとは、私が2008年3月27日に記したもので、「たかばたけかしょうたいしょうろまんかんめーるまがじんだいじゅうはちかい」と題したものです。私はそのエントリーの中で、上記の展覧会についての記事を記しました。その記事の中に、この展覧会で中心となって取り上げられている大正時代の児童雑誌、『金の船』について以下のように記しています。

『金の船』(1922年6月号より『金の星』へと改題。創刊当時は「金の船社」より、1923年以降は「金の星社」発行。1929年に第11巻7号をもって終刊。)という雑誌は、1918年7月1日に鈴木三重吉が創刊した『赤い鳥』という児童雑誌に端を発した、「赤い鳥運動」のなかで、1919年11月に斎藤佐次郎が創刊した児童雑誌とのこと。華宵はその『金の船』に、1922年から1923年にかけて、「こども絵」というものを描いたようです。

私のこの記事を読む限り、高畠華宵は金の船社(のちの金の星社)刊の『金の船』と、それを引き継ぐ形で発行された金の星社(金の船社より名称変更)刊の『金の星』で「こども絵」を描いたように捉えることが出来ます。実際私もそのように思っていました。

しかしながら、今回のメールマガジンでは、以下のような記述がありました。

編集内部の不協和から、大正11年4月で終了、その後『金の星』(金の船社)と『金の船』(越山堂)の二つの雑誌に分かれました。華宵が表紙絵や挿絵を描いたのは、後者の越山堂から発行された『金の船』です。

『金の船』が1922年に終了したことは私の伝えた情報と同じですが、その後について私が伝えた情報が間違っていました。

メール・マガジンによれば、金の船社による『金の船』は終了後、引き続き、金の星社(金の船社からの名称変更)社から『金の星』として続いたものとは別に、そのまま『金の船』というタイトルで、越山堂から発行された雑誌にも分かれて存続したようです。そして、華宵が「こども絵」を掲載したのは、その越山堂から出版された方の『金の船』だったようです。

私の不勉強がまたまた露呈してしまいました。お恥ずかしいことです。簡単に、パッパと調べてブログに掲載してしまう私の悪い癖ですね。読者の方に、間違った知識を伝えてしまいました。すみません。

ということで、高畠華宵についての、正確な情報を手に入れたい方は、ぜひぜひ高畠華宵大正ロマン館のメール・マガジンを講読してください。購読の申込みは、こちら可能です。

高畠華宵大正ロマン館のメール・マガジンでは、高畠華宵に関する話題はもちろんのこと、美術館が位置する東温市に関する情報や、学芸員さんをはじめとする美術館スタッフの方のコラムも読めたりします。話題豊富でおもしろいですよ。

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