たかばたけかしょうたいしょうろまんかんめーるまがじんだいさんじゅっかい


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▲高畠華宵大正ロマン館▲
▲Google マップより▲

愛媛県東温市にある、高畠華宵大正ロマン館より、メール・マガジンの最新号である、第30号が到着しています。

高畠華宵大正ロマン館のメール・マガジン、第1号から欠かさず紹介し、コメントしているこのブログです。しかし、私のずぼらな性格のため、届いてから、かなりの時間が経過しての紹介となっているのが、ここ最近の傾向となっています。遅いときは、「次のメール・マガジンが来るし、早よ紹介せな!」と思い、エントリーをたてることも。しかしながら、「これじゃ、あかん!」と思い、今回は珍しく、到着数日で、紹介エントリーをたてることとなりました。

さて、今回のメール・マガジンでは、私が以前のエントリーで紹介をした、新たに発見されたばかりである華宵の油彩の美人画について、紹介がされています。

現在、大正ロマン館では、珍しい華宵の油彩美人画を展示してます。京都での修業時代、関西美術院で洋画の勉強もした華宵ですが、これまで確認されていた華宵の油彩画は3点のみでした。今回発見された油彩画は4点目となり、しかも油彩画では初の美人画です。華宵ファン必見のこの作品、お見逃しなく。

私が、この油彩の美人画について知ったのは、前回のエントリーの最後に引用した、愛媛新聞社のウェブ・サイトに掲載されている、「華宵の油彩美人画発見 東温の記念館あすから公開」という記事を読んだからです。

その記事によれば、発見の経緯は、以下のものだったようです。

京阪神地域在住の所有者が今春、京都市で開かれた華宵の作品展を見て同館に鑑定を依頼した。同館は、独特の顔表現や筆致、挿絵に記したものと同じサインがあることなどから華宵の作品と判断した。

記事にある「今春、京都市で開かれた華宵の作品展」というのは、このエントリーで取り上げた、京都精華大学情報館での展覧会のことと、推測できます。この展覧会は、2008年3月8日〜2008年4月11日にかけて開催され、展覧会のタイトルは、「美少年美少女幻影~高畠華宵の世界~展」となっていました。高畠華宵生誕120周年にちなんで、この時期に京都で行われた、様々なイベントのうちのひとつだったと記憶しています。

前号の、メール・マガジンでは、この油彩の美人画については、一言も触れられていませんでした。そして、今号のメール・マガジンでも、先に引用した程度の扱いでしかありません。なぜでしょう。

愛媛新聞社の記事を、読んでみると、次のようにも記されています。

華宵の油彩画は自画像など、これまで三点しか確認されておらず、女性を描いたものは初めて。

つまり、この新しく発見された、華宵の油彩の美人画は、今後の華宵に関する研究に、新たな道筋をつける可能性のある作品なのです。そこから、華宵の新たな魅力が、発見されるかもしれないものなのです。しかしながら、メール・マガジンでの扱いが小さいのが、少々不思議です。

もちろん、この美人油彩画は、発見されて間もないこともあり、まだまだその絵に関して、分からないことは多いのでしょう。したがって、まだ、詳細を述べることも出来ないので、記事にすることは難しいのだと思います。それは私も理解できます。

また、この油彩の美人画は、所有者が、たまたま名乗り出てこられたから、発見されたものです。この油彩美人画を探す、高畠華宵大正ロマン館の、積極的な行動があったわけでも(恐らく)ありません。見つかったのは、幸運だったといっても良いのではないでしょうか。そういうこともあり、大々的に、美術館の成果として、発表する訳にはいかないのかもしれません。

しかしながら、そのことを考えてみても、やはり私は、もう少し、この貴重な華宵の油彩美人画について、高畠華宵大正ロマン館側から、積極的な情報開示があっても良いと思います。というのも、今回の油彩美人画の発見は、高畠華宵大正ロマン館で働く方の、地道な学芸に関する努力があったからこそと、私は考えるからです。

華宵がいくら、当時、有名な挿絵画家であったからといって、生誕から100年以上も経過した今、普通に考えれば、当時ほどの知名度を期待するのは難しいです。しかしながら、高畠華宵生誕120周年に関するイベントが、今春、大々的に京都で行われました。それはなぜ、可能だったのでしょうか。

それには様々な要因が考えられると思いますが、その要因のうちで、もっとも多大な功績と考えられるのが、高畠華宵大正ロマン館の存在だと私は考えます。この美術館があり、そしてここで働くすべての人が、華宵の当時の業績や、華宵作品の魅力を余すことなく、現在に伝える多大な努力を行っている結果が、高畠華宵の生誕120周年の記念を、京都で大々的に開催できるほどにしたのです。そして、その一環として行われた、展覧会をみて、今回の油彩画の所有者が名乗り出てきたために、新たな作品発見につながったのです。高畠華宵大正ロマン館がなければ、そこで働く人たちの努力がなければ、今回の発見には、結びつかなかった可能性が高いのではないでしょうか。

したがって、自慢しろと言うわけではないですが、もう少し、胸を張って、「私たちのこういう活動が、こういう成果に結びつきました!」という風に、述べても良いのではないかと思います。そのことによって、美術館の活動というものが、もう少し、世間一般に認知されるかもしれないのですから。

まあ、色々書きましたが、それが私の素直な意見です。ただ、記事に「京阪神地域在住の所有者」という、かなり曖昧な記述が見られるように、所有者が、積極的に、この作品の存在を知られたくないのかもしれません。税金の問題なども出てくるでしょうし。ということで、「出来るなら」という感じの、意見提案だと思ってください。

今回はもうひとつ、メール・マガジンを読んで感じたことが。それは、いつもメール・マガジンの最後のコーナーとしてある、学芸員さんが記す、「じゅげむじゅげむ」での話題についてです。

今回の「じゅげむじゅげむ」では、松山市にある、「萬翠荘(ばんすいそう)」という建物が、大正時代の建築ということで、取り上げられています。現在は、愛媛県立美術館の分館として、利用されている萬翠荘ですが、元々は、1922年に、旧松山藩主の子孫に当たる、久松定謨伯爵が、別邸として建設したものらしいです。

学芸員さんの話によると、以前は、「薄汚れた感じ」だったらしいですが、今回、改修工事を経て、新たにお披露目された萬翠荘は、とてもきれいになったようです。

さて、そのことに関連して、学芸員さんは、「じゅげむじゅげむ」の最後に、次のように記されています。

近世までは紙と木が主な建築資材であった日本。それは、燃え易く永続しがたい建築物を意味していました。
近代になると鉄筋、レンガ、石と燃えにくく、消失しづらい建築資材で建物が造られます。
ヨーロッパでは、何百年前もの建物が現在も現役で使用されていますが、
明治以後の近代を100年以上経た私たち日本人もようやく建築という芸術と長くつきあっていく段階にやってきたということでしょうか。

おっしゃるように、木材を主とした、日本古来からある建築物は、ある意味、「燃え易く永続しがたい建築物」だったかもしれません。それが、近代に入り、西洋建築を見本として、「消失しづらい建築資材で建物が造られ」始めたおかげで、建築物が永続性を持つようになったということは、1922年に建築された萬翠荘が、今なお現存し、今回のように、修復後、新たに生まれ変わり、私たちにお披露目されることとなったことで、証明されているのかもしれません。確かに、萬翠荘と同じ頃に建てられた日本建築で、現代にまで残り、まだ利用されているものは、少ないように思います。

しかしながら、西洋建築を手本とし、石材を中心とする建築資材でもって、日本でも建築が行われるようになり、永続性を持った建物が出てくるようになったからといって、我々日本人が、「ようやく建築という芸術と長くつきあっていく段階にやってきた」と、主張できるものでしょうか。結論から言えば、私は、そうは思いません。

コラムの文章から読み取るに、学芸員さんの主張するのは、おおむね、次のことのように思われます。

「燃え易く永続しがたい建築」しか持たなかった日本人は、それまでの日本建築が、後世に長く残ってきづらかったために、「建築という芸術と長くつきあって」こられなかった。しかしながら、近代に入り、「消失しづらい建築資材で建物」が作られるようになったおかげで、ヨーロッパのように、建築が永続性を持つようになり、我々日本人は、「建築という芸術と長くつきあって」いけるようになったのかもしれない。

どうでしょう。私は、このように読み取りましたが、あっていますでしょうか。

私は、どうも、この主張に違和感を感じました。

というのも、建築に利用される資材だけによって、建物の寿命が異なってくるということには、同意できないからです。それなら、例えば、7世紀に建てられたとされている法隆寺が、21世紀に入った今もなお現存し、利用されている理由というものが、説明しづらいのではないでしょうか。これほど古い建物が、現在も利用されている例は、石材での建物がほとんどのドイツでも、見ることは少ないと思います。私は、Aachener Dom(アーヘン大聖堂)ぐらいしか、その例を知りません。

私は、木材を主とする日本建築が、石材を主とする西洋建築より、後世に長く残りづらいことの理由のひとつとして、建築資材の違いよりも、その維持に手間がかかることが、あげられるのではないかと思います。

例えば、今回の萬翠荘、「薄汚れた感じ」で放置されていたらしいです。しかし、修復によって、きれいな萬翠荘によみがえったとのこと。これは、萬翠荘の構造が、石材(や鉄材)で出来ており、その構造部分の、経年による劣化が少なかったから、可能だったのではないでしょうか。このことはまた、建物の維持にかかる手間が、少ないことを、意味しているように思えます。

もし、同じ時期に建てられた、木材を主とする日本建築があったとして、同程度に放置されていたとしましょう。すると、恐らく、構造部分の痛み具合は、萬翠荘の比ではなかったと思われます。

木材を主とする日本建築では、建築後も、資材となる、木や土や紙は「生きて」います。「呼吸」もすれば、「伸び縮み」もします。したがって、定期的に手入れをしてやる必要があります。これをいったん怠れば、それら資材は「死んで」しまいます。そうなった家に、住むのは大変です。

このように、ちょっとでも、手入れをしてやる手間を怠ると、痛んでしまう日本建築と、そうではない西洋建築では、どちらが後世に残りやすいかは、自明だと思います。

もっとも、この手間は、建築資材の別に由来していることから、資材によって、建築物の寿命が変わるとも、言えないことはないでしょう。

しかしながら、私が考えるに、日本建築が、後世に長く残りにくかった理由の、もっともたるものは、他にあると思います。それは、日本人が、自ら生み出した建築の良さに、長らく気がつかなかったことではないでしょうか。

明治維新以来、西洋に追いつけ追い越せで、生活も社会も文化も、西洋化を急いだことは、よく知られています。当然建築もそうでした。新しい生活に適合し、見た目も珍しく、手入れのための手間のかからなさもあり、どんどん西洋建築が建てられていきます。当時はきっと、日本建築よりも、西洋建築の良さばかりに、人々は目を奪われてしまったのではないでしょうか。その一方で、木材を主とする、古来からの日本建築は、手間のかかることもあり、顧みられることもなく、どんどんと失われていきます。

しかしながら、失われつつあった、日本古来の建築に、価値を見いだした人がいました。それが、Bruno Julius Florian Taut(ブルーノ・タウト)です。彼は、桂離宮の、装飾を排した、簡素なつくりのなかに、モダニズム建築に通じる近代性を見いだし、絶賛をしました。そして、西洋のものばかりに目を向けていた日本人に、伝統と近代という問題を提示します。

西洋化が進んでいた時代に、もし、日本人も、彼同様、日本建築の良さに気がついていれば、もう少し現在の状況は変わっていたと思います。木材を主とする建築資材で建てられたとしても、今日まで、長く利用され続けるような日本建築が、今よりも多く残っていたのではないでしょうか。

例えば、木材を組み合わせるだけで、建てられた日本建築は、しなることで、地震の揺れや、台風による強風にも耐えることが可能です。これは、日本の国土に、ぴったりあった建築と、言えるのではないでしょうか。また、素材の木が呼吸し、伸び縮みすることで、自然に空気の入れ換えが行われます。そして、そういった、木という素材の特徴を、あらかじめ考えて作られた建築には、大工の建築技術の高さも、垣間見ることが出来るのではないでしょうか。またなによりも、鉄を利用しない、木や土や紙といった資材で建てられた建築は、必要がなくなれば、すべて自然に帰すことが可能です。エコロジーが声高に唱えられる現代にも、マッチしていると思います。

こういった、日本古来からの、木材を主とした建築の良さに、これまで日本人が気がつくこともなく、盲目的に、西洋の建築を良しとして、取り入れてきたから、日本建築が、後世にあまり残ってこなかったのではないでしょうか。建築資材云々よりも、私は、こちらの要因の方が、大きく関係していると思います。維持にかかる手間さえ惜しまねば、木材を主として建てられた日本建築は、石材を主とする西洋建築と、何ら変わらず、長持ちするでしょう。

もちろん、近代以降、西洋建築の手法で建てられた建築物にも、良さがあることは認めます。したがって、それらが、今後も長く、保存されていくことは、私の望むところです。

しかし、それと同時に、古来から伝わる、伝統的な木材による日本建築の良さを、日本人が再度意識して、それを後世に伝えていこうという意識が芽生えること、そして、実際に多くの日本建築が、後世に残されていくことも望みます。そうなることで初めて、「建築という芸術と長くつきあって」いけるようになるのだと、私は考えているので。

今回は、珍しく、2つのことについて、強く主張してしまいました。今号の、メール・マガジンが、示唆に富んだ、おもしろいものだったと言うことです。決して、酔っぱらっているわけではありません・・・

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