かいがをきく

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▲Wassily Kandinsky, Improvisation 30 (1913)▲
▲Oil on canvas, 109.2cm x 109.9cm▲
Arthur Jerome Eddy Memorial Collection
The Art Institute of Chicago
▲Chicago, United States of America▲

München(ミュンヘン)のKunstbau(クンストバウ)で開催中の展覧会、「WASSILY KANDINSKY – ABSOLUTE. ABSTRACT. RETROSPECTIVE 2008/2010」(2008年10月25日〜2009年3月8日)の会期も、残り数日となりました。そのせいもあり、最近は、閉館前の22時になっても、多くの人が会場に残っています。私の場合、通常は混雑を避けるため、昼間や週末には訪れず、仕事帰りの19時30分頃から、訪れるようにしているのですが、それも最近は、あまり効果がない状態です。20時ぐらいでも、チケット売り場の前には、30分以上並んでいる人の列が、最近はいつも出来ています。恐らく、今はいつ行っても、混んでいるのでしょう。

さて、その「WASSILY KANDINSKY – ABSOLUTE. ABSTRACT. RETROSPECTIVE 2008/2010」で良く目にするのが、作品の解説が入っているオーディオ機器(小型で携帯可能なもの)に、耳をじっくりと傾ける人々の姿です。日本の電車の中で、携帯電話をいじっている人の割合ぐらい、作品解説のオーディオ機器に耳を傾ける人を、展覧会の会場では見かけます。かなりの割合と言っても、良いのではないでしょうか。

今日は、そのことについて、前々から気になることがあったので、少し記してみたいと思います。

いつの頃から、そういったシステムが出来上がってきたのか分かりませんが、気がつけば、様々な美術館や博物館で、導入されているのが、オーディオ機器による作品解説です。美術館や博物館を訪れ、それを利用したことがある方も、このブログを読んでくださっている方の中には、おられることでしょう。

美術館に出かけた際、例えば絵画作品を見るというのは、単純なように思えて、実はなかなか難しいことだと思います。特に、近代以降の絵画については、画面に何が描かれているかすら、分からないものもありますから。そういったものに、どうやって取っつこうかと思っている人にとって、オーディオ機器による解説を聞けば、「ああ、なるほど。」、と理解できることもあるのでしょう。

「WASSILY KANDINSKY – ABSOLUTE. ABSTRACT. RETROSPECTIVE 2008/2010」で展示されている、Wassily Kandinsky(ワシリー・カンディンスキー)の絵画作品も、そのような、難解なもののうちに挙げられると思います。したがって、それを少しでも理解しようと、人々はオーディオ機器による作品解説に、熱心に耳を傾けているのではないでしょうか。

ところが、その熱心さが、仇となっている場面に、最近の「WASSILY KANDINSKY – ABSOLUTE. ABSTRACT. RETROSPECTIVE 2008/2010」の会場では、必ず出くわします。

以前のエントリーで記したのですが、この「WASSILY KANDINSKY – ABSOLUTE. ABSTRACT. RETROSPECTIVE 2008/2010」、本来は2009年の2月22日までが会期だったところ、会期が延長され、3月8日までになりました。それは、私にとって、とてもうれしい知らせでしたし、他の美術ファン、特にKandinskyファンにとっても、恐らくそうではなかったでしょうか。

しかし、この会期の延長は、全てが全て、うまく行われたわけではありません。例えば、会期が延長された2月23日以降、契約の問題から、延長期間には展示が出来ない作品が出てきました。したがって、現在「WASSILY KANDINSKY – ABSOLUTE. ABSTRACT. RETROSPECTIVE 2008/2010」で展示されている、Kandinskyの作品の中には、複製品が混じっています。作品の欠けたそのスペースを埋めるため、そこに展示されていた作品の複製品が、飾られているのです。

この複製品、複製であるが故に、大きさや色合いは、本物に限りなく似せられており、良くできています。しかし、そこはやはり複製品、本物の持つ雰囲気や力はあるはずもなく、本物を見たことがある人ならば、一目で複製品として認識できるものです。

しかし、オーディオ機器で、作品の解説を聞きながら見ている人の中には、熱心に作品解説に耳を傾けているが故に、それが複製品であることに気がつかず、熱心に複製品に目を向け、中には本物と捉え議論している人がいます。それも、結構な割合で。

そのようなことになってしまうのには、様々な要因が考えられると、私は思います。

ひとつに、その複製画のどこにも(キャプションを含め)、それが複製画であることが、示されていないということをあげられるでしょうか。

その展覧会にとって、とても重要な意味があるけれども、何らかの理由で作品の展示が困難な場合は、あえて複製画を作成し、展示することはあります(兵庫県立美術館ゴッホ展 兄フィンセントと弟テオの物語」(2002年9月7日~11月4日)など)。しかし、そういった事例はあまりないですし、あったとしても、「これは複製です。」ぐらいのことは、どこかに記されているものです。しかし、この複製画には、それは記されていません。

次に、作品に近寄って、見ることが出来ないという、現在の状況も、その一因として挙げられると思います。

「WASSILY KANDINSKY – ABSOLUTE. ABSTRACT. RETROSPECTIVE 2008/2010」で展示されている、一部の作品には、それ以上近寄らないようにと、作品の前に、ロープが張られているものがありますが、それは数点のこと。あとは、ロープが張られていないため、作品に自由に近づくことが可能となっています。もちろん、作品に触れることは出来ませんが。

しかし、現在、大変な混み具合ですので、作品のすぐ前に人が立ってしまうと、他の多くの人が、その作品を鑑賞できなくなってしまいます。そこで、人々が、お互いに考えた結果でしょうか、作品から2mぐらいの間に、人は立つことはなく、そこにはスペースが空いているのです。もちろん、何らかの拘束力があるわけではないので、それを守っていない人もいます。しかし、たいていの人は、それを守っているようです。

ただ、それゆえに、この複製品の前にも、スペースが出来ており、人々は、少し離れたところから、この複製品を見ることになってしまいます。したがって、見えづらいでしょうし、複製品かどうか、見分けが難しいこともあるでしょう。

しかし、人々が、複製品を複製品とは知らずに、熱心に見て、議論してしまう一番の原因として、私は、先に挙げた、作品解説のオーディオ機器が挙げられるのではと考えます。

この展覧会を訪れた際、少しでも、展覧会を訪れている人々を観察したならば、その人々が、最も熱心に行っていることは、絵画作品を「見る」ことではなく、絵画作品の「解説を聞く」ことであるというのは、すぐに分かることです。

絵画作品の前に立ち、その絵画作品を見ることや、キャプションのデータを読むのもそこそこに、キャプションに付された、解説番号をオーディオ機器に打ち込み、解説を聞く。そして、それが終わると立ち去る。最後まで解説を聞いて立ち去るならばまだしも、半分ぐらいの人が、解説が終わる前に、もう、次や、次の次の作品に目や足を向けています。これが、典型的な、訪問者の行動のように、私は思いました。

オーディオ機器を利用した、作品解説は、とても便利なものだと思います。ガイドによる、解説と異なり、好きなときに、好きな作品の前で、作品の解説が聞けますから。そして、絵画作品を理解する、手助けの「ひとつ」にもなると思いますし。

しかしながら、本来なら、絵画作品の解説を聞くために展覧会に来たのではなく、絵画作品を見るために、展覧会に来ているはずなのに、実際の所は、作品解説を聞くことが主になっていて、実際に作品を見ることが、二の次になっている人が多いのではないでしょうか。

絵画作品を見ることは、最初にも述べたように、難しいこともあるかと思います。したがって、その解説があるというのは、絵画作品の理解のために、とても役に立つというのは理解できることです。

しかし、解説を通じて、絵画作品に描かれているものや、その内容を理解するだけが、絵画作品の鑑賞ではないと思うのは、私だけでしょうか。

例えば、いくら難解に思われる絵画作品でも、見ることで分かることはたくさんあります。作品は大きいのか小さいのか、絵具は何であるか、どのような技法で描かれてあるか、何色が利用されているか、塗りは厚いのか薄いのか、筆の方向は、等々です。これらは、見れば分かるものが、ほとんどではないでしょうか。そして、それらを見ることも、鑑賞のうちに入ると、私は思うのです。

しかし、展覧会会場で、熱心にオーディオ機器の解説に耳を傾けている人ほど、作品のそういった部分にまで、同程度の熱心さを傾けて見ている人は、少ないように思います。したがって、複製品であろうが、本物であろうが、同等に捉えてしまうのだと思うのです。

私は、オーディオ機器による作品解説の効果を、認めてはいるものの、自分自身では、ほとんど利用しません。それどころか、以前のエントリーに記したように、絵画作品に付されている、キャプションすら、最初は見ません。そのようなところから得られる、先入観を持たずに、まずはニュートラルな状態で、絵画作品に向き合いたいからです。絵画作品を最初に見たとき、その絵画作品から得た「自分の」印象を、まず知りたいのです。

初めての人(仮にAさんとする)と出会うとき、その人を知っている人(仮にBさんとする)から、さんざんAさんについて、色々なことを聞いていたけれども、実際出会ってみたら、Bさんが言っていた印象と、随分と違った印象を、Aさんから受けることはあると思います。例えば、Bさんの話では、あまり良い印象ではなかったけれども、実際は、そのようなことはなく、割と好印象だったということも、ある話です。

絵画作品の場合も、同様のことが言えると、私は思います。作品解説から得られることも多くあるでしょうが、その絵画作品に直に接した方が、分かることもあると思うのです。取っつきにくそうだと思って、敬遠していた絵画作品が、向き合ってみると、案外打ち解けやすい作品だったりすることも、あり得るのではないでしょうか。

それから、「絵画作品は、難しくて、よく分からない。特に近代や現代の絵画作品は。」という人がいます。しかし、私は、近代や現代の絵画作品が、特にそうかどうかは分かりませんが、少なくとも、絵画作品を見るということは、難しくて当たり前ではないかと思うのです。

「絵画作品は、難しくて、よく分からない。」という人に対し、私は常々思っていることがあります。それは、そう発言する人は、本当に、絵画作品を、いつかは完全に理解することができると思っているのか、知りたいということです。私の考えだと、そのようなことは、あり得ないと思っているので。

このことも、人との付き合いに例えられるのではないでしょうか。

例えば、人との付き合いで考えてみた場合、いくら親しい人であったとしても、その人のことを、100%理解することは、なかなか出来ないのではないでしょうか。両親、兄弟、親友など、自分の親しい人のことを考えた場合、どの人かひとりでも、100%理解できていると、自信を持って答えられることは、なかなかないのではないですか。

絵画作品にも、これと、同様のことがいえると、私は思います。ほとんど分かったと言えるようなことがあるとしても、100%理解できることは、まずないと思うのです。

私の場合、絵画作品(東洋、西洋どちらでも)に出会うということは、人と出会うということ、そして、絵画作品を見るということは、その人と会話することと同様に捉えています。特に、言葉の通じない(私の場合だと日本語が通じない)人と出会ったというように、私は捉えていることが多いです。

例えば、そのように初めての人と出会った際、会話もなく(実際、人との出会いの場合、そのようなことは難しいでしょうが)1分間、その人を見つめただけで、その人の全てが、あるいは半分でも理解できる人が、どれだけいるのでしょうか。あるいは、片言の外国語を駆使して、1分間その人と会話して、その人のことが、完全に理解できる人が、いるのでしょうか。

私は、そういう人はなかなかいないと思います。それが、5分であってもそうだろうし、例え1時間であってもそうではないでしょうか。絵画だって、それと同じではと私は思うのです。

その人の容姿を、よく見ようと思ったら、それなりに時間がかかります。髪の長さや形だけでなく、色や質もというようにして、全身を見ていけば、1分では足りないでしょう。10分、あるいは、1時間ぐらい必要かもしれません。ましてや、その人の内面を知ろうと思えば、1時間の会話でも少ないでしょう。私、変なことを話していますかね。

しかし、絵画作品に向き合うとなると、人々はなぜだか急に、せっかちになります。そして、1分ぐらい眺めただけで、「絵画作品は、難しくて、よく分からない。」ということになるのです。

絵画作品の前に立ち、5分でよいので、その作品をじっくり眺めてみてください。今まで見えなかった、色々なことが見えてくると思います。先ほど述べたような、作品の大きさ、利用されている絵具、色、塗りの厚さ、筆の方向などなど。もしかしたら、その絵画作品から、臭いまで感じられるかもしれません。

それから、電子辞書(オーディオ機器)も、まずは横に置いて、直接会話すること(見ること)を行ってみてください。片言の、単語だけの会話でも、感じられること、いっぱいあると思うのですが。

外国の人に、「こんにちは。」と、片言の日本語で挨拶されるだけでも、その人の印象は、かなり違ってくると思います。外国人だと構えて、肩に力が入っていたのが、抜けた経験がある人も多いのでは。

絵画作品だって、そう思っているかもしれません。いきなり、電子辞書を持ってきて、自分では何も発言せず、用があるときは、電子辞書を見せるだけ。そして、挙げ句の果てに、1分ぐらい眺めただけで、「この人は難しい人だ。理解できない。」と片付けられる。それでは、絵画作品の方だって、打ち解けようと思っても、そのきっかけがつかめません。片言の外国語を使った会話でも、身振りや手振りを入れて行うことで、通じることもあるものです。

ある絵画作品について、もっと知りたいと思えば、何度も会いに行くのも手でしょうし、その絵画作品について、色々調べて(美術史的なこと)再度会いに行けば、もっともっと、その絵画作品を知ることが出来るでしょう。それこそ、人との付き合いと同じことだと思います。直接その人と会話する機会が多いほど、その人のことを理解する機会が増えるのと同様、絵画作品とも、直接向き合う機会が多いほど、わかり合える機会も多いのです。

絵画作品を、理解しようと思う気持ちがあるのに、理解できないもどかしさがあるのは、分かります。私も常に、そういうもどかしさを抱えつつ、絵画作品に向かっていますから。しかし、100%理解できなくても、仲良くなれる人がいるように、100%理解できなくとも、お気に入りとなる作品はあるはずです。

私と仲の良いドイツ人の話すドイツ語を、私は50%も理解できていないでしょう。しかし、彼らの気持ちは十分に理解できます。もちろん、100%理解できることが理想だとは思いますが、そうでなくとも、人間関係は、うまくいくものです。絵画作品をみることも、案外、そのようなものと思うのは、私だけでしょうか。

Kandinsky作品は、確かに気むずかしそうな人に見えるかもしれません。しかし、実際付き合ってみると、なかなか良い人が多いのです。なので、電子辞書(オーディオ機器)に頼るのは、少し止めて、自分の持っている語彙力だけで、会話を始めることを始めてみませんかね。そうすると、向こうも、気を許して、違う一面を見せてくれると思いますよ。

絵画作品に面と向かうことをしないため、複製画を複製画とも分からず、オーディオ機器から流れてくる作品解説ばかりに耳を傾けている人が、あまりにも多く、その光景が、私には不思議に思えたので、考えていることを記してみました。


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▲Kunstbau▲
▲Google マップより▲

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